私の半生(第一部)・誕生から大学卒業まで

人の苦労話は聞いて面白いのかどうかわかりませんが、
自己紹介のつもりで書かせていただきます。
私は昭和33年に大阪で大工の子供として生まれました。
そしてこの大工、すなわち私の父親こそが、私の人生をボロボロにしてしまう張本人だったのです。
父は兵隊生活で人間がゆがんだようですが、もともと人格異常であったのかもと、今となっては思います。最後は私と壮絶な親子の縁切りにより関係に終止符が打たれました。今から5年前です。
物心ついたときの父の様子は、仕事には行く。しかし毎晩酒を飲んで帰ってきて、私や母を殴るける。仕事が休みの時は家で朝から酒を飲み、やがて何かをきっかけに、私たちを殴るける。飯がまずいと茶碗は全部割る。子供であった私は布団の中で震えることしかできない毎日でした。これを書いている今も決していい気持ちではありません。なぜなら、あれから何十年経った今もその恐怖は消えることがないからです。
 まあそんな父の子供ですから毎日が楽しいことはありません。楽しい思い出なんて何があっただろうと考えないと出てこないどころか、考えても出てこないですね。
 なんか自分に楽しいことがあった時に限って、その晩父は大暴れするような気がして。
偶然なんだけどそう思い込んでしまいました。
 それから道を歩いていても、例えば酒屋の前を通ってしまったら、父が飲んで暴れる。横断歩道の白線を踏んだら、父が暴れる。歩くのはこの道でないといけない。道のこちら側を歩かなければならない。もう完全に幼い頃から強迫観念に苛まれていたわけです。
 少し大きくなってくると、父が暴れて母に暴力振るうと、私は泣きながら許しをこいました。私が謝る理由などどこにもないのですが、虐待、暴力により感情や思考が支配されてしまっているんですね。泣きながら交番所に飛び込んでいくこともしょっちゅうでした。しかし、何もしてはもらえませんでした。母が交番所に泣いている私を引き取りに来た時、警察官の口から出た言葉はこうでした。
「教育上よろしくないので夫婦喧嘩はやめてください」
子供心に思いました
夫婦喧嘩ではない。暴力だと。
当時まだDVなどという概念もなく、母を法的に助けるものなど何もありませんでした。
高校生になっても何も変わりませんでした。弟がいたのですが、これが不思議なことに、弟には、手を挙げたことなど一度もないのです。理由はわかりません。
私は大学を家から通えないところにしました。父は私の受ける大学を家から通えるところにしろと命令しましたが、一つだけ通いにくいところに願書を出しました。それは母の作戦だったのです。わざと近いところは全部落ちろって。私を逃すつもりだったのでしょうね。私にかかるお金は、母がパートや内職で稼いだお金でした。そして大学はもちろん通いにくい大学だけが合格しました。父はかなり不機嫌でしたが強引に家を出ました。盆と正月には必ず帰ってくるという約束で。しかし、運動部にも入り、アルバイトもする生活でなかなかそう簡単には帰れません。帰れないたびに母は暴力を受けていたそうです。あとで知った話だったのですが。

私の半生(第二部)・母の死と精神的虐待の日々

大学卒業とともに私はその地で教員になりました。公立中学校の教員です。そして教員2年目には結婚。たまに家に孫を連れて帰ったり、母と父が孫を見にきたり。私が見る限りは父は少しずつ落ちついてきているのかなというふうに見受けられました。
 でもそんな生活も6年目、私が28歳の時に大きな転機を迎えてしまいます。
 母が癌で急逝するのです。母が癌で入院すると父は、きっとその恐怖からか傍若無人極まりない態度に出るのです。例えば母が入院中に、父親は還暦を迎えました。すると、還暦の祝いをせよと入院中の母を無理やり一時退院させて、全部の世話をさせたのです。母は主治医に体調が良いからと嘘をつき、一時退院したのです。しかし親戚皆は母の体調が芳しくないことを見抜いていたので、場はまるでお通夜でした。しかも母方の親戚は誰もこなかったことに腹を立てた父はそこでも暴れて手がつけられなかったのです。土下座して泣いて謝る母を足蹴にする父に殺意がふっとよぎりました。いつか殺してやると。
そして母は病院に戻り程なく息を引き取りました。病院の机の中から母のノートが見つかりました。そこには「治って退院したらあの男とは離婚する。絶対」と書かれていました。
 葬式も済んで親戚一同が一旦家に引き上げてきました。葬式という以上に場の空気は重苦しいものであったように思います。母方の親戚達は早々に引き上げました。父は一升瓶を出してきてまた飲み始めました。その姿を見ていると自分の中に怒りの感情が沸き起こり、抑え切れないぐらい膨れ上がるのを感じていました。二人目の子供がよちよちと父の前を横切ろうとした時、「うるさいわ!邪魔じゃ!」と小さな子を突き飛ばしたのです。そのあと気付くと父に飛びかかっていました。叔父達が止めに入り、無理やり引き離されてしまいました。引き離されたのをいいことに父は台所に走って行き、包丁を出して私に切りかかってきたのです。「早く逃げ!」という叔母の声に我に帰った私は、叔父達に抑えられてる父をチラッと見ただけで、家族達を連れて表に飛び出しました。もう会うつもりもありませんでした。
 しかし、そう都合のいいようにはことは運んでいきませんでした。
まるで父は悪魔のように迫ってきました。
 まず家に電話がかかってきます。内容は自分の世話は誰がするんだ、家に来てちゃんと世話をしろと。小さな子がいます。私が行くしかありません。しかも仕事があります。そして距離的には決して近くではありません。何度か行きましたが罵られるだけです。そのうち、今度は勤め先の学校にも電話がかかってくるようになりました。次第に仕事どころではなくなってきます。
 きちんと断ればいいとお思いでしょう。幼い頃からの虐待は精神もコントロールされてしまう恐ろしさがそこにあるのです。断れないのです。声を聞くだけで幼い頃の恐怖が蘇ってくるのです。経験しないとわからない怖さです。
 とうとう仕事を辞めてしまいました。しかし、行けば罵られるだけ。一つ間違えれば暴力を受ける。我慢できなくなった私はある日電話で「もうこれ以上あんたとは関わりたくない。もうこれで縁を切るので」と一方的に伝え、切りました。家の電話はコードを抜きました。家は知られているので、嫁の実家に家族を連れて行きました。しかし、そこにも毎晩のように電話がかかってきます。それでも一切電話口には出ませんでした。そういうことが一ヶ月くらい続き、諦めたように電話は無くなりました。私たちも新しい環境を求め引っ越しをしました。しばらく平和が訪れました。

私の半生(第三部)・平和な暮らしを崩壊させた鬼畜のような父

母が亡くなったときは私が28歳の時でした。それから約10年は毎日が平和でしたね。楽しかった。賃貸のマンションに住んでたんですけどね、ある日知人が家を建てるんで、今住んでいる家、借りてくれんかなって言ってきてくれて。もう一も二もなくその話を受けました。小さくとも庭があるんです。犬が飼えます。二階建て。ガレージもあります。言うことなし。私たちは犬を飼い、庭にたくさんの花を植え。本当に楽しかったです。ちょうどその頃、学習塾に勤めていたのですが、とある私立高校からお誘いを受け、そちらに勤めることになりました。遠方で新幹線通勤でした。それでも頑張れました。その時は。。。
 ある時家に帰ると嫁がくらい顔をしているのです。嫌な予感がしました。そしてその予感は当たりました。父に電話番号を教えた親戚がいたのです。父の妹です。つまり私の叔母。あれから父は頼るところ失い叔母のところに転がり込んでいたようなのです。そして叔母夫婦はおよそ10年も我慢し、限界が来ていたようです。叔母は精神を病んでしまっていたそうです。
 毎晩電話がかかってきます。仕事で生徒指導部長をしていた私には、いつ何時電話が入るかわかりません。まだ携帯電話は普及していませんでした。父からの電話は嫁が対応していました。毎晩毎晩、長電話が続きました。私は電話が鳴るたびに、子供の頃の暴力の記憶が蘇ります。これを読んでくださっている方にご理解いただきたいのは、子供の頃に受けた虐待というものがいかにいつまでも心に大きな傷を残すのか、ということです。もう年齢も40歳近くなっていてもどうすることもできないのです。精神が支配されているのです。
 やがて父は胃がんを患い、入院します。母も胃がんでした。母はあっという間に逝きました。私は父もそうであることを望みました。
 しかし現実はそう甘くはありません。元気なもんです。そしてこういうのです。「わしが退院したら当然面倒はお前が見るわな。長男だし」
 そういうわけで退院した父がやってきました。
 せっかくの夢の生活が音を立てて崩れていきました。まずリビングとキッチンは打ち抜き、一階は全て父が利用。一階を使う時は許可を求めること。庭の花は全部抜かれました。「こんな食えないようなものを植えるな」犬も一階には連れていけません。私たちのことを「犬きちがい」と罵りました。
 それから10年です。
 職場でもちょっとしたことからパワハラが始まり、二つの大きな問題を抱えて私の精神は次第に壊れていくのです。

私の半生(第四部)・パワハラと虐待 堪忍袋の緒が切れた

父は毎日のように無理難題を押し付けてきます。少し例を上げてみましょうか。晩ご飯の後風呂に入るのですが、もし風呂で倒れたらいけないので、夫婦で風呂場の前で待っておけ。これは冬は大変でした。マンションではないので風呂場の前の廊下の寒いこと。チャイムをつけて鳴ったら夜中でも見にくること。これはしょっちゅう夜中に鳴らされました。しかも自分が眠れない時に。「間違えて押したわ」と笑っています。調子が悪いので病院へ連れていけ。その度に仕事を休まないといけません。食べ物は出来合いのものは禁止。外食禁止。いつも飲んでは「わしにしたがえ!」と叫んでいます。弟は10年の間一度も来ることはありませんでした。父が死なないかなとそればかり望んでいました。
 ちょうどその頃、学校では生徒指導部長というポジションにいました。生徒の生活指導の大変な学校でした。家に帰れないこともしばしば。ある時、校長がある責任問題で校長職を追われました。みんなからは大変嫌われている人物で、私はほっとしていました。責任問題というほど大したことではありません。私学でしたので、生徒数が減ったということでした。新しい校長が2年ほど勤めましたが、うまくいかず、結局前の校長が復職したのです。さあ、それからです。権力を握った校長のパワハラが始まったのは。つまらないことであれ、追い込む追い込む。体育主任はうつ病で学校を辞めました。当時はパワハラという言葉ができたばかりで、裁判に持込みようもなかったのです。当然私もその対象でした。何かあったら自分の携帯に電話してこい。勝手に動くな。聞こえはいいでしょ。問題が発生して電話します。「おかけになった電話は。。。」です。何度かけてもそれです。仕方がないので、その問題を処理します。翌朝報告に行きます。「勝手に動くなというとろうが!」です。嵌められているわけです。
 次第に体調がおかしくなってきました。食欲はもちろんありません。汗をかいたり寒気がしたり。めまいはしょっちゅう。何もやる気が起きません。部活動は全国大会の常連チームの監督でしたが、それすらやる気が出てきません。ちょうどその頃家でも妻が父のために、全く同じ症状が出ていたのです。二人揃って父には内緒で心療内科に行きました。「抑鬱状態」との診断でした。薬を飲むと不安は確かに止まりますが、あのなんとも言えない思考停止のぼーっとした状態に襲われます。生きているのか死んでいるのかわからない状態でした。本当に死んだ方が楽かなあとも思いました。学校には行くものの何もできません。授業も、気がつけば椅子に座って、ぼーっとなっています。家では妻が膵臓をやられて毎日ひどい下痢と背中の痛みに悩まされていました。
 私は診断書を提出し、1年間の休職に入りました。父にはそんなことは言えないので、毎朝いつも通り家を出てウロウロして夕方に帰ってきていました。
 そんなことが10年続いたある時、大きな、本当に大きな転機が訪れます。「キュウソねこを噛む」というやつです。子供たちは家を出ていっていました。もう身も心もボロボロで、親戚たちに片っ端から助けを求めました。みんな父と関わりを持つのを恐れるあまり、返事すらしてくれません。完全に孤立状態です。妻は行動や感情がおかしくなってきていました。
 12月。もうすぐクリスマスという時、私のスイッチが入りました。復讐です。子供の頃から夢にまでみた父への復讐のスイッチが。私は職場を訪れ、理事長と校長に退職届を叩きつけました。ニタっと笑いながら。今でもはっきり覚えています。校長の胸ぐらをそっと掴んだ時、奴が震えているのがわかりました。そんな「はした人間」はどうでもいい。家に帰っても相変わらずの人間が、そこにいました。

私の半生(第五部)・決戦!父を捨てる!

私は父を捨てるつもりでした。ただし事前に弁護士さんと相談はしっかりしました。今までのこともすべて洗いざらい話しました。話を聞いている弁護士さんが、いつの間にか涙を浮かべていたのには驚きました。緊急避難という解釈で、万が一の時は自分でよければ全面的に応援するという言葉までいただきました。
 まず私は父には内緒で住む所を探しました。どこでもよかったのです。父さえいなければどんなところでも最高だと思いました。住んでいたところから一駅隣にちょうどいい物件がありました。父には内緒で少しずつ荷物を運びました。当然必要最小限度です。嫌な思い出はすべて置いていきたかったのでちょうどよかったのです。そして決行日が決定しました。弟に電話をしました。父が遺産のことで話があるということで、来いと行っていると。父の遺産などもともと何もないのですが、何も知らない弟は二つ返事でした。
 その日が来ました。私は普通に仕事に行くフリをして、父の部屋に顔を出し、「行ってきます」父は新聞を読んでいました。それが父を見た最後です。妻と犬を車に乗せて家を出ました。あまりに手が震えたので途中のコンビニの駐車場に一度車を止めたのを覚えています。何も知らない弟は言われた時間にやってきたようです。それからどうなったのかは想像もできません。とりあえず父は弟の家に行ったようです。
 まだしないといけないことが残っています。家の中のすべてのものの処分です。業者に頼んで一日でやってもらいました。何も残っていないことを確認し、家を貸してくれていた知人に鍵を返して事情を話しました。特に問題なく引き渡しは終わりました。
 父がどれくらい荒れ狂ったかはだいたい想像がつきます。しばらくの間携帯電話が鳴りっぱなしでしたから。弟や親戚からです。そんなもの電源切ったらしまいです。
 まだ家財道具も何にもなく、がらんとした部屋で食べたコンビニ弁当が、こんなに美味しいものとは知りませんでした。幸せでした。もうパワハラもなく、父からの虐待も完全に無くなりました。父と縁を切ったら、弟や親戚とも縁を切ることになってしまいました。母方の親戚は喜んでくれると思っていたのに、なぜかすべてつながりを絶ってきました。いいです。私はそれで幸せでしたから。私のことを気にかけてくれたとある学校の校長が、心のリハビリを兼ねて、うちに来いと呼んでくれました。ありがたかったです。また再び教壇に立てるとは思いもしませんでしたから。何もかも終わった。そう思いました。
 しかし鬱はそんな生易しいものではありませんでした。(最終部に続く)

私の半生(最終回)・心の病は繰り返される

全てがうまい具合に動き出し、順風満帆のようでもありました。しかし、あるときお風呂から出た時に、お腹のおへその横あたりに赤い発疹が出ているのを見つけました。虫刺されかなくらいに思っていました。薬も塗らずにそのままでした。次の日になっても発疹は消えていません。それどころか若干増えているような。三日目、発疹は消えるどころか、明らかに数を増やしつつ、よりはっきりとしていっているのです。嫌な予感が頭をよぎりました。「帯状疱疹」多分それではないか。教師をしていると何度かそういう生徒を見ています。でもなぜ自分が、今頃。そして次の朝には、髪の毛をとくと頭皮にピリピリとした痛みが走ります。これはもう帯状疱疹に違いないと確信しました。しかもここまできたらできるだけ早く病院に行かないと厄介なことになると。学校には行って、高校3年生の授業だけはやって病院に行くつもりが、右肩が痛くて板書ができず、右脇腹に激痛が走り、もうギブアップでした。病院での診断はやはり「帯状疱疹」原因は「ストレス」でした。もう少しで入院ものでしたよ、と医者に言われ、薬袋をブラブラさせながら、学校への坂道を登っていると、偶然前から校長がやってきました。私は校長にことの次第を連絡すると、校長は大笑いをしながら「お前になんのストレスがある」と言いました。本当にそうです。思い当たる節がありません。時間とともに私の体調も元に戻って行きました。新しい環境で、知らず知らずにストレスが溜まっていたんだと理解していました。そろそろ夏も終わり秋を迎える頃、朝起きると、やたらに枕に髪の毛がついています。もしかしてと後頭部を見てもらったら、小さな一円玉ほどのハゲが。まあ、探さないとわからないようなものなので気にもともていませんでした。しかし、枕には依然多量の髪の毛が。一円玉はやがて十円玉に。そしていつしか五百円玉に。それだけではないのです。五百円玉サイズのハゲはひとつではなかったのです。二つ、三つと数を増やします。そしてそれぞれが合体していくのです。病院に慌てて行きましたが止まりません。とうとう後頭部にはほとんど毛がなくなりました。あまりの凄さに生徒も何も言いませんでした。私は見てくれも悪いので薄いニット帽をかぶって授業をしていました。病院では原因はやはり「ストレス」 
 それを聞いた校長は、私を校長室に呼び、どんなことでもいいから遠慮せずに言ってみなさいとおっしゃってくれますが、肝心の私にはとんと身に覚えがないのです。校長の指示で養護教員の先生が心療内科を予約してくださいました。
 心療内科では子供の頃からのことも詳しくお話をしました。その時の先生がおっしゃったのは次のようなことでした。
 小さい頃から心に受けた傷が大変大きいですね。心が脆くなっていて、頑張りが効かない。そこにもってきて大人になって仕事の無理、パワハラ、家での心の負担。こういったものはあまりにも心に大きな影響を及ぼしています。今の生活は大変良好であっても、全くストレスがないということは考えられない。ご自分でも知らないうちになんらかの小さいストレスがあったのでしょう。それが起爆剤となって、隠れていた心の病がまた出てきてしまった。それが免疫不全を起こし、帯状疱疹や脱毛症を引き起こしていったのでしょうね。
 日常生活で大きなストレスがない限り、ひどくなることはないので気を楽にして毎日を過ごしていけば良い、ということでした。その先生のおっしゃる通り、しばらくすると髪の毛が生え始めました。今はもう普通に生えています。再発するものなんですね。怖いことです。
 虐待、パワハラ。それが今までの自分のほとんどだった。悲しかったですね。
 私はそうやって育ち、生きてきたのです。以上が私の生い立ちです。本当にザーッと大雑把にまとめましたので伝わったかどうかわかりません。ただこの後、私を助けてくれた校長先生が、私にとんでもないプレゼントをくれたのでした。
 校長先生の知り合いが禅寺の住職をしていて、頼めば面倒みてくれるかもしれない。まあ、合わなかったらやめたらいいじゃないかという話を、持ってきてくれたのです。
 長期的に休養してみるいい機会かな、くらいの気持ちで禅寺に行ってみることにしたのです。結論から言ってこれは効きました。どんな薬より効きました。結局、きれいに1年間お世話になり、私の人生はごろっと変わったのです。禅寺、最高ですよ。
 (禅寺での生活は次の特別編で)

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