私と禅(前編)

禅寺での修行(前編)
 プロフィールページの「私の半生」から続く
(心の病がまた再発してしまった私を心配してくれた校長先生がある禅寺を紹介してくれました)
 校長先生のお世話でちょっと禅寺を覗いてみるくらいの気持ちで行ったのですが、檀家もない小さな禅寺です。住職さんは近くにある大きいお寺の方です。法要などがある時はみんなそちらに行って一緒にしますが、ふだんは四人のお坊さんが修行をされています。食べ物は自給自足です。
4月の桜の花の咲く頃、お寺の門をくぐりました。いい季節でした。
 皆さんと自己紹介を交わして、作務衣をいただいて着替えました。なんかお坊さんらしい感じがしてきました。なんかワクワクとした気持ちで、まるで修学旅行の生徒のような気分でした。晩ご飯が出るまでは(笑)五人で食卓を囲みます。そこに出ているメニューの粗末なこと。もちろん粗末などというとばちが当たります。私は好き嫌いは多い方だったのです。例えば野菜。特に煮たようなものは嫌いでした。後に思い知ることになるのですが、好き嫌いがどれだけ心に悪いか。でも嫌いなものは嫌いで、でも残せるような雰囲気はないので、我慢して食べました。全体的な量も少なくあっという間に食べてしまいました。お坊さんたちは皆無言で黙々と口を動かしておられます。まあ、その間の空気の悪さ。9時に就寝です。翌朝の起床時間を聞いて愕然となりました。なんと午前3時半です。その夜の寝付きの悪さはいうまでもないでしょう。
 ほとんど眠れませんでしたので、ちゃんと3時半に起きました。、顔を洗い、朝の座禅です。寝てしまいそうになります。みんなの格好を見様見真似でとりあえず形だけ。何を考えるのかとか、何も考えないのかとは何も教えてくれませんでした。これから全部自分で気づいていきましょう、と言われただけです。座禅の後は朝のお勤め、そして朝ごはん。おかゆです。そして作務と呼ばれるお掃除、作業があります。住職さんがやってきて講話もあれば、お勤めの時もあります。また座禅の時も。そうこうしててお昼。また座禅、や作務の繰り返しです。自給自足ですので、畑や田んぼにもいきます。三日で嫌になりました。ラーメンを食べたかったですね。コーヒー飲みたいなあ。そんなことばっかり考えていました。帰ることばっかり考えてましたね。でも逃げたと思われるのもなあ、とか。ずるずると1週間が経ちました。
 ひとつ自覚できる変化がありました。食事ですね。美味しくなんてないです。ただ嫌いとも思わなくなりました。美味しくもないけれど、嫌とかでもない。なんと言えばいいのでしょうか、何にも感じない。ただ黙々と食べている。
 毎日が黙々と過ぎていきました。私は仕事を辞めていましたので、月に一回、失業手当をもらいにいかねばなりませんでした。いわば、月に一回、シャバに出られるのです。その時は家にも帰ります。もちろん家は立ち寄るだけです。外を歩いていると、美味しそうなものが誘惑してきます。それはそれは苦しいものでしたね。早くお寺に帰りたかった。
 やがて夏がやってきました。エアコンも何もく。でも風の涼しさを感じる心が戻ってきました。相変わらず座禅は黙って座っているだけです。何をどうしたらいいのかわからない。
でも、あれ? ということがありました。昼間座禅を組んでいるととにかくセミの声がすごい。大合唱です。やかましいと思うとよけいにやかましい。もうなんでもいいやと思って、今度は反対にセミの声をこちらから聞いてやったのです。みんみんみんみん、ジージージージー。いろんな声がするもんだなあと思っていると、ふっとセミの声がしなくなったのです。泣き止んだのではありません。聞こえなくなったのです。ほんの一瞬でしたが。次の日から昼間の座禅が楽しみになりました。昨日はどうやったらセミの声が聞こえなくなったのか、もう一度試してみたかったのです。なかなかうまくはいきませんが、何回かはセミの声がしなくなります。
 だんだんわかってきました。うるさいと思うとよけいにうるさいんです。暑いのもそうです。暑いと思うとよけいに暑いんですね。つまり自分でうるさくしてるし、自分で暑くしているんですね。すべて自分の心が決めているというのはこういうことかいな、とわかり始めてきたのです。
                                   前編終わり

私と禅(後編)

嫌になったらいつでもやめようと思い、始めたお寺の修行。桜の頃に始まり、いつの頃かセミの声もしなくなりました。自給自足の野菜やお米もぐんと成長しました。相変わらず講話以外は何も具体的なことを教えてはくれませんが、「禅」というものがぼんやりと遠くの方に見えてきているような気もしました。田んぼに入ります。雑草を抜きます。特にヒエはイネとそっくりなので、間違えないように集中しなといけません。一生懸命仕事をしているとすぐ時間は経ちます。座禅、お勤め、食事、作務。お勤めはお経がわかりませんので、手を合わせて皆のお経を聞いているだけです。仏像の顔をじっと眺めているだけです。
 朝のお掃除は廊下ふきから。みなさんものすごいスピードで拭きます。速くしないと逆にしんどいのです。他ごとが頭に入ってくるとしんどいのです、だから、一気に。でもきついですね。
 秋になると落ち葉。作務の中で落ち葉を掃く作業があるのですが、掃いても掃いても頭の上から落ち葉が落ちてくる。落ち葉に馬鹿にされているようで。終わりのない作業ですね。それでも掃くことにひたすら集中します。
 食事は質素なもの。一汁一菜です。カレーや、ハンバーグなんて夢の話。ただ目の前の食べ物をいただきます。いつの間にか、「食べる」が「いただく」に変わっている自分がいました。
 嫌いな冬がやってきました。お寺の冬は本当に冷えます。もちろん暖房はちゃんとあります。でもいつものようには冬の寒さは気になりません。なぜなら、コツを覚えたからです。
お寺での座禅をはじめとする修行でコツを思えたのです。
 人間、嫌なものを目の間にするとそのことばかり考えます。知らぬ間にそのことで頭がいっぱいになります。それを「執着」というのですね。そうなるとその嫌なことに頭が支配されてしまって、よけいに苦しむことになるのです。冬になり寒いです。それは自然の現象なので私にはどうすることもできないのです。それをそのまま受け入れます。逃げてはいけません。真っ向から向き合うのですね。「寒いなあ、嫌だなあ」と思う自分を否定しません。それもまた自分です。寒い時に寒いと思うのは自然なことです。ありのままに受け入れるというのは、そういうことです。
 冬はひとつだけ嬉しいことがあります。起床時間が1時間遅いのです。午前4時半起床です。朝の水拭きはきついです。手の感覚がなくなります。でもひたすら速く、そして丁寧に拭きあげます。「速い」と「丁寧」は一見矛盾しているように思えます。しかしその二つを追求することで、自ずと集中します。つまり他ごと、いわゆる「雑念」が入る余地がないのです。作務であり、食事であれ、そのことだけに心を使います。これこそが「今を生きる」ということなのですね。私は毎日、毎日、「今を生きる」ことに専念しました。
 冬も終わりやがてまた桜の季節がやってきました。私は自分からお寺を出ることを申し出ました。みなさんとお別れです。悲しくはなかったですよ。自分の心の中からふつふつと湧き出るえエネルギーを感じていました。自分のやること、やりたいことがはっきりと自分を動かしているのを感じていました。本山の方からご住職が来られて、最後のお言葉をかけてくださいました。
 「桜の花に出迎えられて勉強しに来られ、また桜の花に見送られて山を降りる。お元気で」お言葉はたったこれだけでした。それで十分です。たくさんのことを学びました。誰が教えてくれたわけはありませんが、体で覚えました。学ぶとはどういうことか。それを学びました。子供の頃から本当に辛いことの連続でした。その心の傷は決して消えません。しかしその傷を持っているのも自分。それと向き合い「今、この瞬間」をを生きています。
 これを読んでくださったあなたに心より感謝申し上げます。

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